「バ」は「ハ」の濁音か?

音韻[009]___

 

「ハ」の濁音

 ハ〈ha〉の右肩に濁点を付けてバ〈ba〉ですから、ハの濁音がバになるということに、何の疑いも無いでしょう。

例えば、橋〔ハシ〕は天神橋〔テンジンシ〕、火〔ヒ〕は焚き火〔タキ〕、本〔ホン〕は単行本〔タンコウン〕など、或る単語の後ろにハ行音が来ると濁音になる。常識ですね。

ただし、作業服〔サギョウク〕、綱引き〔ツナ・キ〕などは清音のままです。また、足踏み〔アシ・ミ〕は濁音ですが麦踏み〔ムギミ〕は清音、落ち葉〔オチ・〕は濁音ですが枯れ葉〔カレ・〕は清音。必ず濁音になるという事でもないようです。この使い分けは何でしょう?

 

 

「清音」と「濁音」

 カとガ、サとザ、タとダなど、清音と濁音の作り方を見るとき、発声時に於けるプロセスの、何処を変えることで声の出し分けが為されているのでしょう。

実際に声を出して違いを探ろうとしても、これが、俄〔にわ〕かには違いが分かりません。ほぼ同じです。

ところが、「ハ」と「バ」に限っては、音の作られ方が明らかに違います。「ハ」は始めから口を大きく開けて発声するのに対し、「バ」は口を閉じた状態から、これを開くことで作られます。違いますね。どうゆう事でしょう。

 

 

「バ」は、何の濁音?

「ハ」とは作り方が異なる「バ」ですが、では「バ」と同じような形で作られる声って有るのでしょうか。ア.カ.サ.タ.ナ.ハ.マ…、ヤ.ラ.ワ、有りました。「マ」の音が同じです。閉じた唇を開いて出す声です。

すると「バ」は「マ」の濁音ということか! そういえば、漢字などでは既に日常的に見ていますね。

馬(マ・バ)、美(ミ・ビ)、武(ム・ブ)、
米(メ・ベィ)、母(モ・ボ)。

これを見ればバはマの濁音のようです。馬美武米母の音読みは、マミムメモであり、バビブベボです。

かつて、桂枝雀さんが「すみませんね」と言うところ「スビバセンネ」と言っていたのを思い出します。

 

○「アカメ(赤目)」
 子供の頃、イタズラをしてくる相手に「あっかんべー」などと、言葉の反撃をしましたよね。その際、指先を目の下に当て、これを少し押し下げて下瞼〔マブタ〕の内側を見せる仕草を同時にします。この部分は常に充血しているので赤目といいます。つまり、赤目を見せながら、アッカンベー(アカメ)と言う訳です。

アカメとはアカツメ(本来はツの音が入る)という語で、アホウ、バカ、ホウケなどと同様に「愚か者」の意味を持った言葉でした。ド・アホウ→ダボ、といった方言や、ブ・アカツメ→バカメ、という語になります。(※ドやブは物事を強調する時に乗せる音です。)

このアカメと下瞼内側の赤目とが同音であったところから、赤目を見せつつ、アカメ(各音を強めた、ア・カ・メー)と言ったのでしょう。この「メ」が「ベ」に転じて、アッカンベーになりました。

ただ、今の子供たちがこの仕草をやってるのを見た事がありません。どうやら、すでに死語となっている様です。

 

他にも・・・、
「マツキ」という語
 第一音のマがマンと撥ね、マツキになり、更に転じてバンザイ(万歳)の音になります。

 マツキ→マ ツキ→マンスイ→バンザイ。

▽ちなみに。
「マツキ」は永遠の命をいい、「カツキ」は肉体の寿命を表します。カツキ→カッツキ→コツフキ→コトブキ(寿)と転じます。(※言祝〔コトホギ〕とは別語)

また、アツ・カツキが転じて、→ヌアツ・カフト→ナツ・カヒト→ナガヒト(長人=長命な人)になります。

《仁徳記》大雀が建內宿禰に対して「・・・那許曾波 余能那賀比登」〈・・・汝こそは、世の長人〔ナガヒト〕〉といっていますが、この時の建內宿禰は、かなりの高齢だったのでしょう。

長生きとはいっても、今とは時代が違いますから、せいぜい五十代、いっても六十代、というところでしょうか。(一説に三百歳超?だとか。学者の方々が、真顔〔まがお〕で、仰っておられるらしい。)

 

話を戻します。

 

「マリ」
 ある物体から、別の物体が出てくるのを、マリ、マレ、マロ、などと言います。原音は ム・アリ(産む・有り=出現・存在)ですが、これが縮んでマリになります。

須佐之男命が天照大御神の国にやって来て、やらかした狼藉の一つ。
《神世記》「亦其於聞看大嘗之殿、屎麻理此二字以音」〈屎〔クソ〕麻理〔マリ〕散〔チラカシ〕
「麻理此二字以音」〈マリ。この二字は音を以て〉とあります。麻理の二字は、仮名字(音書き)です、との注(小文字)を示します。

*大(クソ)も小(シコ)も、その排泄行為をマリと言いましたが、厩舎で働らく人達は、馬の尿をバリと言うようです。元の音はマリだったと思われますが、何故か濁音でバリです。

元は、別の単語が頭に乗っていて、のちに乗ってた語が落ちて、バリだけが残ったのかも知れません。例えば、シコ・マリがシコバリになり、シコが消えてバリだけになる。

今時の言葉でいう「バエ(映え)」みたいなものです。バエは「ハエる」が元ですが、インスタ・バエからインスタが省かれた表現ですね。濁音残りのパターンとしては同じです。
※インスタ・バエのバエはマエからの転ではなく、ハエ→バエと転じるバエですね。オトコ・ハエ →オトコ・バエ(男・映え)と同じです。但し、オトコ・バエは更に転じて、→オトコマエ(男前)となります。

通常は清音があって、これが濁音に転じますね。ところが、マ行音とバ行音に限っては、マ→バ、バ→マ、といった双方向に移る音です。厳密にいうと、バ→マの場合はブ→ム、と表記すべき音なので少し事情は違います。

 

 

二種類の「ba」

「マ」の濁音が「バ」であるというのは間違ってはいないようです。しかし、それたけでは 、△〔サンカク〕です。正解ではありません。何故なら、「バ」を濁音に持つ音は一つではないからです。

*完全に口を閉じて開くマの濁音の「バ」と、唇を窄めて開く「フゥ」の濁音「ブゥ」があります。

  1. (ma)」唇を閉じ完全遮断の後、開放することによる声音。濁音はバ。
  2. (phu)」唇に少し隙間を持たせた半遮断の後の開放音。この音は口を窄めて作る声音(完全に閉じない)なので、上下の唇が接触してしまうと簡単に「ブ」に移ります。
    そして、ブ(バ)からム(マ)へ、ファ→ブァ→ムァと移るので、ムァ(マ)は濁音の濁音、“濁々音”と言えるかも知れませんね。
  • (u)」唇口形はフと同じですが、喉で遮断開放をすればウ(母音)になる。よって、ウァ()→ヴァ(バ)になる。
  • (tsu)」ツ→フ→ブと転じる音。

*古代や上代の人にとって、声音加工(遮断開放)をしていない音「ハ(ha)行音」は、言葉を作る声音には使わなかったのでしょう。
※(遮断開放:[003]「声音の作り方」参照)

 

 

「バ」は「ハ」の濁音ではない

 私たちが「ハの濁音はバである、と信じて疑わない」のは単なる思い込み、勘違いによるものです。

*人間が発する声は様々に転化します。それは遮断開放という操作の過程で起こり得るのです。声帯振動音をそのまま出し、一切の加工をしないh音は、そもそも声音転化自体が無い音です。

それは、濁音も存在しないという事です。更にいうと、半濁音(p音)を「ハ行のカナの受け持つ音韻」とする事もできません。(※h音・ハヒフヘホの音のうち、ヒ(hi)とフ(hu)の音は、状況により例外。)

 

*現在、私たちが使うハ行音はh音ですが、かつて、長い間(数千年、いや数万年単位かも知れない)ずっとph音でした。ハナ(花)はファナ、ホコ(矛)はフオコ、と発音していました。

いつの頃からか、

日本人はファ(pha)の発音を捨て、徐々にハ(ha)に変えてゆきます。そして、主〔おも〕に本州を中心にh音へと移行していきます。

にもかかわらず、

「ハ」の濁音を「バ」としているのは、ハ行音をファ(pha)、フ(phi)、フ(phu)、フ(phe)、フ(pho)と発音していた頃、その濁音がブ(ba)行音だった、その名残りが今も続いているだけです。

 

*“勘違い”と言い放つのは、ちょっと乱暴かも知れませんが、ある種の慣習的思い込みに依るもの、というのは事実でしょう。

だからといって、

しっかり定着してしまってる現実を見ると、今さら変える必要もないのかな、と考えます。正しい、間違い、なんかより大事なものがあるでしょうから。(文法があっての言葉ではなく、言葉のパターンを整理したのが文法です)

 

落ち葉〔オチ〕になったり、枯れ葉〔カレ〕になったりするのは「清音濁音、どっちでもいい。好きな方でどうぞ。」という事です。

それは、ハ(ha)とバ(ba)の二つの音に転化上の繋がりは無いが、習慣として残っているものを否定はしない、という“空気”がこれを是認します。

 

▽ちなみに。
 英単語が社会の中で使われる頻度が増してきた事で、日本人の口にもph音が少し戻って来ましたね。ただ、充分に浸透している訳ではありません。

iPhoneの発音にも、アイフォン、アイホン、この両方が飛び交っています。アイフォンが正しい? 確かに。

でも、どっちでもいいでしょう、日本語として使っているのですから。国民全員が言語学者になる必要はない。

そう思います。