音韻[011]___
◇日本語の音は何個有るのか、そんな事を考え始める人は、過去に幾人も居たようです。そんな中で、ある時代「あめつちのうた」や「いろはうた」、そして「五十音図」といったものが作られました。
◇「あめつちのうた」
十世紀の中頃(村上天皇の御代)に作られた「あめつちのうた」と呼ばれている「うた詞〔ことば〕」があります。「かな」四十八文字すべてを使って、一字の重複もせず並べています。原文はすべて「かながき」されています。
あめ つち ほし そら 天 地 星 空
やま かは みね たに 山 川 峰 谷
くも きり むろ こけ 雲 霧 室 苔
ひと いぬ うへ すゑ 人 犬 上 末
ゆわ さる おふ せよ 硫黄 猿 負ふ 為よ
えの えを なれ ゐて 榎の 枝を 馴れ 居て
*「えのえ」と、「え」が二つありますね。これは、先の「え(榎)」と、後の「え(枝)」が別の音との認識に依るものでしょう。(恐らく五十音図に於ける、ア行のエとヤ行のエ。)
ただ、違う音として扱うのなら、何故それ用の平仮名を作ってないのか。この音を持つ漢字が無いのでしょうか。少し怪訝なところです。
ここでの音数は四十八あります。(※ヤ行は「やゆえよ」、ワ行は「わゐゑを」を使い、「ん」は入らない。)
十世紀前期の頃、『倭名類聚鈔〔ワミョウ ルイジュウ ショウ〕』(和名抄) が編纂されました。この編者は、源順〔みなもとの したがふ〕(911〜 983年)という人です。
彼は、三十六歌仙の一人として知られ、和漢の学識を備えた人です。「あめつちのうた」の作者は、この源順と言われています。
◇「いろは うた」
この歌が確認できる最も古い資料が『金光明最勝王經音義』(1079年)なのだそうです。日本語を作る音(濁音を除く)を洩らさず使い、且つ、七五調でまとめています。四十七音。(※ヤ行は「やゆよ」、ワ行は「わゐゑを」、「ん」は入れず。)
いろは にほへと 色は匂へど
ちりぬるを 散りぬるを
わかよ たれそ 我が世 誰ぞ
つねならむ 常ならむ
うゐの おくやま 有為の奥山
けふこえて 今日越えて
あさき ゆめみし 浅き夢見し
ゑひもせす 酔ひもせず
この「いろは歌」は、手習いを始める人の為の仮名手本(平仮名の習字見本帳=教科書)として使われ始めます。これが庶民にも広がり、一般化していきました。
▽ちなみに。
赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」という外題〔ゲダイ〕は、「いろは歌」四十七文字と赤穂義士四十七人とを重ねたものです。
*たわむれに「いろは歌」神話編
古人〔いにしえびと〕もすなる「いろはうた」というものを、凡人もしてみんとてすなり。
四十六音。(※ヤ行は「やゆよ」、ワ行は「わを」、これに「ん」を含める。)
おきつとり 沖津鳥
さくやこのはな 咲やこの花
いろたちぬ 艶立ちぬ
かねてわれ かねて我
ほにせしむすめ 惚にせし乙女
ひそみまゆ 顰み眉
けふもあらんを 今日も有らんを
うえるよへ 飢える夜へ
◯邇邇芸命は美しい木花之佐久夜毘賣と出会い、求婚した。佐久夜毘賣の父・大山津見神から、姉の石長比賣も一緒にとの申し出。ところが邇邇芸命は姉を見て、「あっ…、ダイジョウブです。」と、断ってしまった。(何がダイジョウブなのか)その容姿が好みでは無かったのでしょうが、斯く言う邇邇芸命もまた結構なブ男でした。佐久夜毘賣は『どの顔で言ってるの?』と嫌悪を露わにした。
初夜こそ閨房に入れたが、たった一回、それっきり。以降は寄せ付けない。邇邇芸命は毎夜通うのだが、露骨に嫌な顔をされ部屋に迎えてもらえない。
『また、眉間に皺かな』と思いつつ、今宵も懲りず、刹那に勝てず、夜道を歩く邇邇芸命。(※「はな」とは新妻を表わす言葉です)
── このストーリーには筆者による創作が入っており、記紀に根拠を持たない箇所が含まれています。〈woguna / ミナモのヒトハ〉
◇「五十音図」
私たちが日頃から目にする五十音図ですが、その存在は、少なくとも十一世紀には確認できるといいます。
梵語の音韻表、悉曇〔シッタン〕章(サンスクリットの字母表)に基づくとされていますから、僧侶によって作られたのは間違いないところです。
ただ、五十音図といっても色々なバージョンがあったようです。作る人が違えば、それは音の並べ方も変わるでしょう。一つの例に次のようなのが有ります。(「や行*」と「ら行*」の位置が今とは違う。)
*《反音作法〔ハンオン サホウ〕》明覚〔寛治七年(1093年)、写本・醍醐寺藏〕
阿伊烏衣於 あいうえお
可枳久計古 かきくけこ
夜以由江与 やいゆえよ*
左之須世楚 さしすせそ
多知津天都 たちつてと
那尓奴祢乃 なにぬねの
羅利留礼癆 らりるれろ*
波比不倍保 はひふへほ
摩弥牟怡毛 まみむめも
和為于惠遠 わゐうゑを
※左側の漢字は現在使われている平仮名の元字ではないものも有ります。
◇十世紀、十一世紀の頃、日本語について研究する人が多くいたようですね。この時代は清少納言や紫式部が生きていた時代でもあります。
自分たちが使う言語(日本語)への関心が高い時代だったのでしょう。そんなムードの中で作られた五十音図は、殆んど変わらぬ姿で千年の時を経た今もなお、日本語の音韻表として比類のない価値を持ち、存在し続けています。
◇「上代特殊仮名遣」
七・八世紀(またそれ以前)の書き物で使われる漢字のうち、真仮名で表記される字を見ると、後代に於いては同じ音として扱われる字でも、当時は別個の発音だったのが有ったようです。
例えば、「岐」と「紀」は現代に於いて同じ「キ」と読みますが、上代では異なる「キ」だったという事です。そして、これらは表記に於いて混同する事なく、区別は徹底されています。
キヒミケヘメコソトノモ(11音)と、濁音のギビゲベゴゾド(7音)の音には二種類の文字があり、使われ方は明確に分けられているという。(※アンダーライン付きは濁音を含む)
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ ゐ う ゑ を
※青色付き(よ・ろ)は古事記にのみ見られる。
「かな」では書き分けられていない、これらの語字(赤字)に該当する漢字は二種類あり、今は、甲類・乙類と呼ばれます。それがどんな発音だったのか、どう違っていたのかについてはよく分かっていません。
ただ、かなに依る「い・ゐ」「え・ゑ」の書き分けは、甲類乙類を見る上で、一つのヒントになるように思います。
奈良時代の末頃から、この書き分けは曖昧になってゆき、平安時代に入ると完全に混ざってしまいます。但し、書き分けが消えたからといって、必ずしも、その発音まで無くなるとは限りません。
*奈良時代以前に存在した表音文字使用法という事で、上代特殊仮名遣〔ジョウダイ トクシュ かな づかい〕と、橋本進吉博士によって名付けられました。
尤も、現代から見て“特殊”ではあっても、当時の人にすれば全く“普通”の事だったでしょう。徹底して書き分けが為されているというのは、そういう事です。